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ウイーン時代のクリスマス

いよいよクリスマス、今年も最後の月。

 

親族達は皆日本にいるので、会えない代わりに、いつも贈り物をする。

お歳暮とか日本ならするのだろうが、こちらではクリスマスギフトが一般的。

 

プレゼントをあげたい人がいると言うのは、本当に幸せなことなのだ。

そして、プレゼントを用意できると言うこともまた幸せなこと。

この季節は、一年で一番好きな季節だと「夫」と「娘達」は言う。

それは、きっと家族、友人、知人に恵まれているからだと思う。

 

私は、実はそうと言い切れない。

この季節、いつもちょっと忘れられない虚しさ、悲しさがそこにある。

 

’90ごろからのウイーン留学時代のクリスマス。

日本から来ていた数少ない仲良し留学生は、皆ほとんど日本へ里帰りしてしまった。

そして、現地の学生もみんな家族と過ごすため、遊び仲間は、その日は全く交流を避ける。

ほんの数人残った仲間は、、、時には誰も残っていなかったりもしたが、クリスマスの仕事をする(教会でミサを吹いた)以外は、ひっそりと年越しをした。余分なお金は持ち合わせてなかったから、日本にプレゼントを送ることも思い付かなかった。

それでも何とか乗り切れたのは、全くの孤独になることを避けられたお陰。

 

初めての年のクリスマスは、日本でお世話になっていたピアノのM先生が「緑のたぬき」蕎麦を送ってくれた。親も年に一度、何かを送ってきてくれたが、その中身時は全く違うものだった。親が送ってくれるのは、親が知る私の好物。M先生もウイーンに留学経験がおありだったので、「恋しい物」を理解してくれてる!と、本当に嬉しかった。

 

ある年のクリスマスは、近所のスーパーでサーモンの刺身を(本当はただの切り身だが)危険を犯しそれをつつきながら、ひたすら同郷の先輩と飲んだ。当時はまだ寿司がほとんど出回っていなかったので、手に入る寿司ネタは皆無に等しく、ツナマヨネーズや、エビで手巻き寿司をした。海苔やワカメは、日本食の象徴だった。

 

ある年のクリスマス過ぎの年末は、ドイツのベルリンフィルのクラリネット奏者になった友人宅(実はウイーンに行った時初めて下宿させてもらった、フックスさん夫妻)を訪ねて、大晦日の恒例のシルベスターコンサートを聞かせてもらい、その後の打ち上げパーティーに参加させて貰った。

 

またある年は、日本の地元のお客様を接待(と言うか通訳)をして欲しいと頼まれて、自腹では絶対行けないようなホテルでフルコースディナーを毎晩いただき、ウイーンフィルのニューイヤーズコンサートを聞き(NHKの取材カメラが普段学生用に公開している立ち見席を占領していたので、扉の脇から関係者がちょっと入れる場所があったので、こっそり忍び込み)贅沢な年越しをさせて貰った。

 

またある年は、音楽家一家のホームパーティーでご馳走になった、、、。娘さん2人が留学していて、ご両親が一緒に年越しをするために遊びにいらしてたのだ。すごい量の手料理を作って、里帰りできない日本人学生を皆集めて振る舞ってくれた。今から考えたら、もうちょっとちゃんとお礼をするべきだったと思う。その時覚えた明太子マヨディップ(セロリや他の野菜スティックをつけて食べると絶品)は、今もたまに作る。

 

またある年は、同じアジア出身のルームメートがクリスマスツリーを飾ったことに感激した。飾りはよく覚えていないが、高さ1メートルくらいの木に赤いリボンのようなものが4つくらい付いていただけだった。でもその香りは強烈で、クリスマスを楽しんでいるその姿に感激した。

年が明けてそのツリーを片付ける頃には、葉っぱは茶色が罹ってポロポロと落ちる。クリスマス市場でたくさんオーナメントが売られていたが、当時の小遣いでは贅沢すぎたので、ツリーを飾ることは、憧れで終わった。今、クリスマスツリーにこだわるのは、この時の経験があったからだと思う。

 

またある年のクリスマスは、ゲイ友のおじさんと一緒にご飯を食べた。近所に住むアル中の友達を世話していた優しいそのおじさんは「おTOさん」と日本人仲間から呼ばれていた。実は日本を離れて当時30年近く日本に帰っていない、、と言っていた。クリスチャンのお母様が厳しかったので、ゲイだと言うことを打ち明けられないで、日本に帰れないのだと言っていた。ひどい糖尿病を患っていたのに、ワインをやめられないで、ヒョロッヒョロに痩せて、顔色も悪く、いつから度を矯正をしていないかもしれない大きな眼鏡をかけて、でも髪は真っ黒でポマードで艶を出している背が高いおじさんだった。あの体で、どうやって働いていたのかといつも不思議に思っていた。

元役者志望で、アメリカにもいた事があると言っていた。だから私がアメリカに行こうと思っていると話した時は、「ロカビリー」をたくさん歌ってくれて、「あっちに行ったら、絵具のような黄色いマスタードを送ってくれ」と約束させられた。

 

そして日本食料理屋さんでずっとウェイターをしていた彼には、独自の食のルートがあって、あの土地で誰も食べることのない馬刺しを食べさせてくれて、長芋短冊(日本のものなのに、実は両方とも初めて食べた)を丁寧に刻んでくれた。

 

すぐ近所に住んでいたので、寂しくなると「ワインを飲もう」と、よく誘いの電話がかかってきた。彼のゲイの相方は弁護士さんだったらしいのだが、すでに数年前に亡くなっていたので、その時の親族とのやりとりの大変さだとか(ゲイカップルの相続権について)いろいろ勉強させれた。

 

NYに引っ越した時の餞別に、金のネックレス(ロケットで、中に写真を入れられる)をいただいた。

誰の写真を入れていいのか分からずに、未だにつけられないでいる。

 

NYに引っ越して半年か一年か経った頃だったか、おTOさんが亡くなったと言う知らせが彼の妹さんという方から届いた。返事を書くことはできない、一方通行の手紙だった。私の送ったマスタードから私の住所を知って知らせてくれたのだ。

覚悟ができていたと言うわけではなかったのだが、「彼は苦痛から逃れて大好きな相方の所へ行った、幸せだった」と思うことにした。