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あちらの世界へ

何かに夢中になると時間の感覚がなくなるって事、あると思う。

 

私は本当によくある。レッスンしながら時間を忘れる。リードを作りながら、スープの火を消し忘れる。一時はペイントに夢中になって、何時間も座ったきりだったり。このブログを書き始めたら数時間経っているという事もある。学生時代も編み物に夢中になって、テスト勉強を忘れる。寝るのが惜しいくらいに、ずーっと入り込んでしまう。それが俗にいう集中力というのかもしれない。

 

集中出来るということは、他に心配事が無いということに他ならない。又はそれらの心配事などを無視する技術を持っているということ。

 

集中して、自然にzoneに入ってくれる時もあれば、肝心な時に気が散って集中できない事もある。パフォーマンスの時などは、自分のテンションが上がるのをお客さんに待ってもらうことは出来ない。変に気が散って間違いだらけになる事もある。それはもう修行。いつでも自分のスイッチを入れる修行。

 

色々なことを通して、好奇心を落ち着かせ、邪念を払う方法を学んできたが、その中でも簡単な方法がある。それは蝋燭を使う、忍者の技。

 

30年ほど前、まだヨーロッパに住んでいた頃、演奏中にどうしても他のことが頭を過ぎるという悩みがあった時期、世間話で隣に座っていたチェロの学生にそのことを打ち明けた。その学生はユダヤ人、いつももみ上げを伸ばし、まるメガネ、タキシーぞ風のジャケットと、帽子に身を包みどこからみても絵に描いたようなユダヤ人。ロサンゼルスにも、いるのだろうけど、私の住んでいる街では滅多にみられない。

 

その彼が、「僕が忍術を教えてあげよう」という。集中力を高めるためには蝋燭瞑想がいいという。「忍術」というところだけ日本語。そして自分はその先生の資格を持っているから、、、という。それもまた「先生」というところだけ日本語。聞くところによると、彼のお父さんもビオラ奏者で忍者の先生。日本で師範の資格も持っているという。

子供の頃テレビで見た時代劇で一番なって見たい役は忍者。「忍び」というのに憧れていた。なんだか凄く面白そう〜それも日本とは縁のなさそうなユダヤ人の忍者。すぐに教えを乞うことに決めた。二人1組でトレーニングするから、仲間を探して欲しいと言われた。すぐに同じアパートに住むYちゃんに声をかけて始めた。近所の公園で待ち合わせした先生はユダヤ人ではなく「忍者ハットリくん」だった。

 

忍術のトレーニングルーティーンは以下の通り

 

1)お祈り

手の指一本ずつ自然の神様に例えて、火、大地、水、空に例えて指おたてながら、膝つき祈る

2)肩の関節回し

直立不動の姿勢で、腕だけ一番大きな稼働軸で、最速で片手づつ回す

3)股関節のストレッチ

右足、左足に体重移動しながら一番深く腰を落とす

4)競歩とダッシュを交代で150メートルずつぐらいを数セット

一番疲れないで早く長く移動できる、飛脚の技と同じらし

5)器械体操

これはバランス感覚なのかな?

6)お祈り

 

日本の小学校や中学校の体育の時間のような内容。日に日に体も心も研ぎ澄まされるのを感じた。ミニマムのメニューで、最大の効果。

これを週に1−2回行っていたが、次のステップに進むために、日本へ里帰りした際に木刀を入手するように言われた。手裏剣も始まるという。やっぱり格闘技になってしまうのか。せめて護身術でも、、、。と思いながら、怖くてやめてしまった。

 

その後も、この世の中の不常時に心躍らされ、奪われ、乱され、それでも自分の意志通りに自分をコントロールすることができるようにと修行は続く。

 

一番難しい修行は何と言っても家族だ。

忍術の修行より辛い。

 

時に子供は自分の意思しか言ってこない。相手がどんな状況にあるかなど、全くお構いなし。夫はコロナ中はちょっと余裕があるので最近は親切に教えてくれるが、以前は夜ご飯が必要か必要でないか連絡してくれないことが多かった。せっかく数時間メニューについて考え、買い物をし、段取りをし、実際料理して、子供たちと時間を合わせて完成させても、食べてもらえなかったりしたら、腹が立つ。それは結構な頻度であるわけだから、腹立たしさを抑えるのに必死。それに子供たちの自分勝手が加わり、あれこれと合わせているうちに自分の意思がどこにあるのか分からなくなる事もある。

15年以上も経って、テコでも動かない家族たちを動かそうとするより、言われるがままに動く方がラクチンだと悟った。私が食べたいものを作って誰も食べなければ腹が立つわけだから、朝ご飯何を食べたいか聞く。昼ごはん何を食べたいか聞く。そして夜も。だから食べたい人がメニューを決めて、私はそれを作る。家族が居なかったら痩せると思う。元々食べ物にあまり関心がない性格。お酒にしても、食べ物にしても、他人と一緒だから楽しむけれど、一人ならカロリーが足りていればいいと思ってしまう。

食に関心がなさすぎるから、自分で決めるのは本当に労力が居る。挙げ句の果てには喜ばれない、、、というのでは全く浮かばれない。

 

集中力を手にする話。実は最近「あちらの世界」への行き来が自由になった。全くオカルトの話ではないので安心して欲しい。

 

以前は自分を変身させてその場その場に対応してきた気がする。ステージの顔、先生としての顔、友達としての顔、そして家族に接する顔。まさに分裂病。これは一歩間違えると違う顔が出てしまうので、気が張る。自分がちゃんと自分でいられているかどうか、常に気になる。

この方法は集中するためとはいえ、お勧めできない。

 

その私が最近一瞬で集中する方法というのが、自分がその世界へワープするという感覚。ドラえもんの「どこでもドア」のように、さっとそこに入ったり出たりする方法。マインドでのワープ。いつ誰と、どこでどんなトラブルが起こっていても、すぐそこから自分のマインドを切り替え、次なるテーマの扉を選んで入っていける。

 

子供の頃から、きっとこの方法は知っていたけれど意識して行ったことはなかった。特に気に入っていることに関しては、ダメだと言われても、ドアを開けて入って行ってしまうし、他人にノックされても気がつかない。子供時代は自分のマインドの妨げになるチョイスが少なかったという事もある。

大人の社会に入っていくと、それではダメだと言われる風潮がある。自分の世界に入ったまま出てこれない人達は、引き籠りと言われて社会のお荷物的存在にされる。

 

このワープの方法を知ってからは、気分のアップダウンもない。自分の周りには、ただ気に入るものと気に入らないものが存在していて、自分にはその気に入らないものから意識を背ける自由があると知っているからだ。

 

かつては自分のネガティブ志向から抜け出せなかったり、考えなくてもいいことばかりずっと考え続けたり、思考を止めるということができなかった。

気分転換など持っての他。他人の口笛や鼻歌までも許せなかった頃もある。

自分の周りがみんな敵に見えたら鬱状態だし、みんな味方に見えたら躁状態。

 

時が経つのも忘れてしまうような、時間を持つ、何も気にならない自由な空間を持つ、そういうことがいつでもどこでも可能だと知れば、本当に自由な時間と空間が増える。畳一畳分の空間に居ながら、行きたい場所に行ける。現実逃避と言われても、それが実生活を営む上で、私にとっては一番健全な方法なのだと思う。

以前の私なら、これを書きながら子供に話しかけられたらイラッとしただろう。最近は数秒単位でもあちらの世界とこちらの世界を行ったり来たりできるようになったので、手を休めて相手の話に一瞬チャンネルを合わせ、またこのスクリーンに帰る事もできる。練習や曲を作り始める事も、結局自分で自分のチャンネルを合わせて「あちらの世界へ」という感じで、見たいチャンネルを見る。

 

テコでも動かない、うちの家族から学んだ事。