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ささやかな幸せ

ささやかな幸せというのには、気にかけたら案外見つかる物。

 

でもどうしても見つからない時は、誰か自分以外の人の為に、何かをするといい。そうすると自分の存在価値が認められたような気がするもの。小さな子供の頃はお母さんにお使いを頼まれて、それをちゃんと出来たら嬉しかった。妹たちとお菓子を分けっこした時も幸せだった。

 

でも実は大人になってからは人の為に何かをするということが難しくなった。みんなから「人に利用されないようにね」と注意されたり、「なんでも人にぽんぽんあげたりしない様に」とか言われると、幸せ気分が、台無しになったような経験が何度もある。そして、ひょっとしたら自分は利用されているだけなのかも、、、と思った途端に、同じことをしても全く幸せでは無くなってしまう。それには仕事という労働をお金に変えて、お金の量がその行動の価値みたいに考える癖がついてしまったからだろうか。確かに、相手の負担を考えないで、「あの人だったら、フリーだよ」的にフリーに価値を置いてGive and Take のTake ばかりの人もいる。そしてそういう感情は伝わる。そういう相手に何かをしても、あまり幸せは感じられないのかもしれない。人が喜んでくれたら嬉しいはずなのに。そのあたり差は一体どこにあるのだろうか。

 

結婚したばかりの頃、夫の転勤はもう決まっていたが、彼の会社の上司の計らいで、私の学校の卒業を半年待ってもらってからの転勤だった。その頃は学校も行っていたが仕事もあった。でも幸い体を壊して働けなくなっていたので、夫について行く事には、全く抵抗なかった。そんなわけで、全ての人間関係をゼロにして、ニューヨークから夫についてロサンゼルスに引っ越してきた。当時はソーシャルメディアはまだほとんど無かった。でもはっきり覚えているのは、体が動くようになった時、ベッドのシーツ替えが自分でできて嬉しかった。転勤直後もずっと出張ばかりだったので、二人で家で過ごすのは月に数日という月もあった。でも多分、体が動かなくなった経験のおかげで、自分に仕事がないことや夫が家にいないことも、友達が誰もいないことにも不満はなかった。楽器もまだできるほどには回復していなかったので、今回のコロナの自粛中以上にやる事は無かったが、本を読むという幸せがあった。

 

最近のささやかな幸せは、、、聞いたら笑うと思うが実はゴミの分別。特に生ゴミの方。リサイクルゴミと普通ゴミだけの分別はこれまでもやっていた。でも家庭菜園をやってみようと思ってから、生ゴミは専用のバケツに入れていい肥料になるまで2週間ほど待って土に混ぜる。これがまた本当にすごい量なのだ。アメリカでは生ゴミをシンクの下にあるディスポーサーで砕いて下水に流し込む。バケツに溜まった生ゴミを見たら、「これだけのゴミを下水に流さなくて良かった〜」と幸せになる。ちょっといいことをしたという、幸せ。子供時代に感じたような幸せ。

 

昔ちょっと流行った、「インディアンの教え」という本で感動した言葉がある。「七世代先の人たちのために今を生きよう」その本を読んだ当初、本当に何も持っていなかった時だったから、その言葉がとても深く入り込んだのかもしれない。ゴミの分別も、それに近い。今現在「畑がいい土になるから万歳!」という喜びよりも、「ゴミが下水に流れなくて良かった。海が汚れなくて良かった。汚水処理の負担を軽くすることができて良かった」という喜びの方が大きいのかな。もし畑で何か取れたら、それはまた別格の喜びが来ると思うが。自分の子供のためだとか、貧しい人の為だとか、親のためだとか、先祖代々のお墓のためだとか、道徳的に正しいとされてる教えはたくさんあるが、中には私たちの行動や考えを窮屈にするような考え方もある。自分の意思が他人の意思とぶつかり合って、何を選択していいのかわからなかったら、とりあえずその言葉に帰り選択するようにしている。情報が溢れて迷った時などは特に。