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音楽が仕事?音楽が趣味?

自分の生徒たちが将来音楽家になりたいと相談を受ける度に、自分の将来を決めた分岐点を思い出す。一番初めは将来の進路を決める事になった中学3年生の春、将来の学びたい事をまず決めて、それからどの高校を受験するか決めるという事になったのだと思う。将来人のために自分ができる事をと自分の持っている能力でするとしたら、何ができるか?と考えた時のこと。

 

 

小さな田舎の小学校だったから、すべてのシーズンで、スポーツ、音楽なんでも部活動というのに入って経験させてもらえた。特に水泳部は犬かきしか知らなかったが入れてもらえて、一から丁寧位に教えてくれる先生がいらして、スイミング教室に一年を通して通っていた子達には到底叶わないにしろ、一緒に競技に参加させてもらえるくらいにはなった。中学校は小学校のほぼ3.5倍のマンモス校。だからこそ、今まで出会ったことのないような色んな凄い子達がいた。漫画を書くのが得意な子。鼻でリコーダーを吹くのが凄い先輩。同じスポーツウエア、同じ制服を着ているのに、どこかオシャレ感が滲み出している子。色んな子に出会っているうちに自分のキャラクターのようなものも、見えて来た。手芸クラブも面白かった。またものすごーっく器用な友達がいて、惚れ惚れするような刺繍や、フエルト細工、針捌き、ミシン捌きを隣で見ながら、到底この几帳面さには太刀打ちできないなーと子供ながらに思っていた。でも下手の横好き〜真似して色々やってみた。

自分の好きなことはものを作る事。そんな子供時代のおかげで、うっすらと自分の体力や筋力の限界、自分が夢中になるやすいものの傾向などなど知ることが出来た。

 

 

進路の話に戻そう。勉強はそんなに頑張らなくても、ワークブックをやっているいるに覚えると言うくらいの記憶力はあった。でも好きな学科は?と聞かれたら、国語、算数、理科、社会意外と、答えるくらいに、勉強には興味がなかったし、点数を取ることにも、ほとんど興味がなかった。「もっと欲を持ちなさい」と、先生からも親からも言われて育った。音楽に関してはとても不思議なのだが、なせか一生やっているビジョンがその時からあった。

私以上に親にとって私の進路は深刻な事だったと思う。両親とも経済的な理由と、時代的背景もあって、高校までしか行っていない。大学コンプレックスがあったのか、とにかく大学だけは出てくれといった。大学を出れば仕事があると思っていたと思う。「音楽大学っていうのもあるらしいわよ」との母の一言から知った音楽大学の存在。大学コンプレックスだったから、大学だったらどこでもいいと思ったのか。実際、当時やってみたい職業は今の私からは想像も付かないかもしれないが、美容師、服飾デザイン、ポップアートのようなアート系。国語、算数、理科、社会 以外は私にとっては遊びだったから、素直に「ラッキー」と思った。音楽以外は全部、専門学校だった。いつも母は私に人生を選ばせているように見せかけて、選択肢を二つ用意していた。洗脳上手なのだ。そして音楽大学に行くという方を選ばせてもらった。そして必然的に音楽高校に進学する事に決めた。今まで専門教育はゼロに近かったわけだから、高校3年間で追い付けるようにという計らい。音楽大学に行くなら専門は「オーボエ専攻」と決めていた。小学校の頃に浜松市の合唱団にに所属していたし、中学校時代ははブラスバンド部に入っていたので、オーボエに出会ったのは10歳のときの音楽鑑賞の時間。リード(吹き口の部分)は自分で作る。そこが一番魅力的だったのかもしれない。それ以来中学のブラスバンドでオーボエ担当になるまで、ずっとしつこいほどオーボエのことを親に語っていたらしい。オーボエの担当になった後も、とにかくオーボエのことをもっと知りたくなっていたので、それを学べる環境だったら、万々歳だった。そのころは実は職業とは全くと言っていいほど結びつきは無かった。オーボエの演奏を生で聞いたことはゼロ。ただ、音楽大学に行くためには音楽高校を受験しなくてはならない。そこで初めて先生を探し出した。東京に住んでいたら、間違いなくその時点でもう遅いと諦めたか、もっと早い10歳からオーボエを習い始めていたかのどちらか。

 

私の生まれ育った浜松は楽器の街として有名だが、当時オーボエの先生はいらっしゃらなかった。地元音楽高校にも音楽の先生はいらっしゃらなかった。長くなるの詳細は省くが、色んなミラクルのおかげで、私の受験する頃には、学校の先生は横浜から浜松に引っ越してこられて、偶然その高校の先生になる方のレッスンを受け始めていた。6歳から10歳まで習っていたピアノの先生は実はこの地元の音楽高校の出身だった。そして、母に音楽大学の存在を教えた両親の結婚した当初の下宿先の大家さんの娘さんも、ここの音楽高校に通っていた。ネット環境がない中、人との出会いだけがミラクルを起こす。とにかくスタート時点でプロ・職業意識が全くないところから、音楽高校、大学、仕事と進んでいくうちに、どんどんシリアスな競争社会になっていった。競争心だけではいつか疲れ果ててしまう。探究心は趣味の時と変わらず持ち続ける必要があり、探究心だけではお金(仕事)にならない。競争社会に入っていかなければ仕事・市場というフィールドに立てない。

 

日本の大学進学には失敗し、それでもオーボエ熱の冷めない私に親は「オーボエと結婚してしまった」と嘆いた。幸い次なるミラクルな出会いが訪れ留学できる事になり、生徒を育てるという事に身体を張ってくれる先生や先輩方のおかげで、ウィーンの学生時代は自分の実力を試せるだけのチャンスや仕事もあったし、始めの数年は探究心を満たすだけの教材が揃っていた。そのうち仕事自体が探究心を満たす物になっていき、3年も経つと逆に仕事から探究心を見出すことが出来なくなっていった。探究心を満たしながら、合法的に仕事ができる場所を探すため、ヨーロッパの違う国や街へ、先生探し、仕事探しを始めた。23歳−26歳の頃。しかしヨーロッパでは新しい先生、新しい学校に入るのには歳をとりすぎていた。

そして思い切って26歳の夏アメリカに来たわけだが、ここで、生きる、生活する、お金という本当の意味を知る事になる。衣食住を賄う事ができなければ、それ以外の何も始まらないという現実。親はアメリカ行きを反対したので、仕送りサポートが無くなってしまったのだ。衣食住が整っているという事を親のサポート賄っていたのい、これがどんなに大事な事だったのか、思い示される事になる。ここから真剣に戦いが始まった。大きなスーツケースの一つは楽譜と楽器、一つは衣食住の必需品の全て。これが全財産。

 

全くの無知だった私は、この時もミラクルな出会いで助けられた。たまたまマンハッタンW64丁目の同じアパートに住んでいた日本人ピアニストM.Mさんが、当時の私に必要な情報を全て差し出してくれた。学校に入るための先生とのコンタクトを探しあて、その先生も私を学校に入れるように配慮してくださった。そして私の中のオーボエで一番弱かった部分のテクニックを解決するために、英語が通じない私に嫌な顔せず絵を描いて説明してくださった。他の先生を何人か紹介してもくれた。おかげで貯金が底をつく前にビザを確保し、自分の所属先(音楽学校)を決め、その後、衣食住を賄うための仕事を紹介してもらい、勉強しながら働けるようになった。その後母親が見るにみかねて、ヨーロッパにそのままいたら送ってもらえた残り1年分の仕送り予定のお金を、こっそり送ってくれた。(ニューヨークでの生活費に換算すると3ヶ月分にも満たなかったが)当時の私は極力のミニマリストだった。時間は衣食住を賄うお金を稼ぐのと、学費を稼ぐ事に充てるため時給と移動時間、それから学校の単位を取るために参加する授業に、分刻みで当てられた。(奨学金分は学校に奉仕しなければならなかった)寝る以外の時間ずっと何かしている状態で、5分でも10分でも座れる時間があったら寝ていた。周りの音楽学生はみんな似たような感じだった。お金(仕事)と時間。これをうまく回さなければ生き残れない。そのエネルギーをどうやって回したら、将来アメリカで音楽だけを仕事にできるか長期戦のプランを立てながらの毎日だった。

 

一般的に、音楽を趣味にするというのは、結局衣食住が賄えている場合にできる事である。探究心を満たす事ができれば、ずっと覚めない情熱をキープできる。なお音楽の内容、出来不出来は自己責任であり、他の誰に迷惑をかけることもない。その音楽がグループの場合、その人間関係さえキープできれば、そのメンバーさえ容認してくれれば、活動はできる。

 

そして音楽を仕事にする場合、音楽の価値は、お金を払う側が決める。自分がどんなに自分のことを未熟だと思ったとしても、その音楽に代価を払うという人がいれば、それは仕事になる。逆に、これ以上何も出来ないと思うほど技術を高めても、お金を払いたいという人がいない限り仕事にならない。お金を払ってくれる人とは、それは聴衆の場合もあり、雇い主、スポンサーの場合、音楽仲間同士の事もある。教える場合は生徒の親御さんや、生徒自身。そして何よりも音楽家は音楽で人を喜ばせるという責任がある。それがなければ代価は生まれない。他のどの職業とも全く同じ仕組み。ボランティアの場合も同じく報酬=寄付はそれを必要とされる側へと流れる。最近のインターネット配信の時代、視聴者がどれだけ喜んでくれたとしても、広告料と配信料をとらない限り、エンターテイメントの直接的報酬はない。人を喜ばせるために、どんなにいい曲があったとしても、著作権などの制約で配信できない事もある。人を喜ばせるということは簡単ではない。音楽を仕事にするというのは、結局自分のチャームポイントを買ってくれる市場を開拓していく事、または自分を売ってくれる人を見つける事。買われたら次にもまたオファーが貰える様に、相手を喜ばせるために最善を尽くす事。お金が生まれる仕組みは、時代によって少しづつ変わってくるのだろうけれど、音楽を仕事にする覚悟を決めた時からこの事を常に念頭に入れておかなければならない。

 

私の場合、今も音楽が趣味であり仕事でもある。自分のための音楽が趣味で、人のための音楽が仕事。と割り切って考え相としているが境界線はかなり曖昧である。いつの間にか衣食住は足りる様になり、探究心の赴くままに実験し、練習し、それが欲しいという人にはそれを渡し代価をもらう。奉仕したい場所には奉仕する。その循環がうまく行く様になってから、仕事(お金)のためだけに音楽をすることはなくなった。その時その時のアウトプット(レッスン、練習、音作り)が次なるインプット(探究心、学び)同化している。自分の作品や演奏と生徒のフェィードバックがそのまま自分に対しての生きがいになり次の仕事にまた繋がる。音楽を仕事にするというのは、結局そういう仕組みなのだと勝手に思っている。フリーランスの気ままさ。

 大きな企業(オーケストラ)に所属雇されている音楽家は、また違う音楽感や仕事感を持っていると思う。団体競技のプロのスポーツ選手に似た感覚だと思う。そこにはもっと厳密な制約やルールが存在するだろう。