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人類皆兄弟!「99%遺伝子で決まる」って!

この閉鎖的な時期を長く過ごすと、孤独を経験する。中には自分自身以外に会話をする相手がいない、、、ということが起こるのかもしれない。孤独から得た私の気付き。

 

1度目の精神的孤独は高校卒業してすぐ、一年だけ猶予をくれると親から許された今で言えば、浪人生という名のニート時代。コンビニのバイト数時間(徒歩5分)、週一回のピアノレッスン(往復1時間半プラス1時間レッスン)各週の地元でのオーボエレッスン往復1時間半プラス1時間レッスン)月一回の東京でのレッスン(往復4時間、1時間レッスン+1時間ウインドーショッピング)以外は外出禁止で軟禁状態。許されて働いたコンビニのバイト代は7万円くらい。ちょうどレッスン代くらいにはなった。今までの学校というルーティーンのような生活なくなると、日々の生活のに疑問が生まれた。毎日、何のためにご飯を食べているのか、何のため練習しているのか、、、。生きてる!ということを感じるためにこっそりと当時同じ浪人生のボーイフレンドに会う時くらいだ。(彼はニートではなかった。予備校に通い、バイトもしてアクティブだった)外出がある日以外は、全くやる気を失った。まだ妹がいてくれてよかった。軟禁生活でも寝るところとご飯があってよかった。「自由になりたかったら、100万円あげるから出て行って、、、と言われて」現実社会を見ていた私には100万円では3ヶ月も生きていけないと知っていた。そしてまだこの未熟な自分はまだまだ勉強しなくてはならない、、、当時その100万円を貯めるための親の苦労を他所に、その母親のの意味する100万円=お金はもらって当たり前の小娘のは100万円で家に留まることを選んだ。自由を謳歌している妹達は私を可哀想がってくれた。この腑抜けな私を見て、『浪人生だけにはなるまい』と、心に誓ったらしい。朝から晩まで何もしたくない、する気がない、、、とゴロゴロしている私に、「今は何にもしなくて良いんじゃない、3日もすれば何か動きたくなるよそのうちきっと」と、その時まだ高校生だった妹が、呟いてくれた。その一言で、救われた。自分で何もしていない自分、できない自分を攻めていたんだと思う。

 

2度目の孤独体験は家を出てから結婚するまでの10年間。誰にも軟禁されることなく、好きなだけ寝て、好きなだけ行きたいところに、行きたいだけ行って、食べたい物を食べたいだけ、とにかく何一つ制約がなかった。親からの仕送りも十分すぎるほどあった。今まであった全ての物を手放し、手に入れた生活だった。月10万円で’学費も衣食住も賄える。ただ30年前のその時代は今のようにネットもなく友達もなく、国際電話代は限りなく高く、ひたすら日本の誰かに手紙を書いていた。でも少ないけれど、ちゃんと頼れる知人を紹介してくれた恩師や、その後私の人生に関わってくださったみな様のおかげで、天涯孤独のような崖っ淵体験にはならなかった。

やる気には満ち溢れていた時にも、楽しいはずのパーティーの時にも、心の穴を自覚していた。

 

当然ながら、自分を育てることが勉強。心の穴をとにかく埋めたい。日々自分探しのようなことをしていた時期、自分を決めるのは遺伝子。。。そう思い込んでいた時期がないわけではない。小さな頃夢中だった色んなことを、遺伝子のせいにして手放したこともある。進路を決める時に、自分の何を使えば、将来何か他人様のためになることをできるようになるだろうと。音楽のために人生を捧げると覚悟を決めてからは、自分の体と精神をどうやったら最大限に生かせるかずっと考え、実践してきたと思う。そして10年走り続けた結果、体の悲鳴を聞いた。入籍して一緒に住み始めて数ヶ月後、ちょっとおかしいなと言う症状が出て2ヶ月で全身リューマチ関節症になってしまった。一人で走らなくても良い、、、と言う安心感から来ているんだよと、当初祝福してくれた友達や先輩方は慰めてくれた。普通に歩いたり、トイレに行ったりもできないほど全く動かなくなってしまった私に。そして悟った。音楽はどうでも良い、ただ最低でも自分のことが自分でできる体が欲しい。

 

ここから第3の孤独。これが良いよーと教えてくれるものは全部試した。でも不治の病と言われているだけあって、これが良いと言う決定的な治す方法はない。東洋学で健康食品や漢方薬で治す方法と、化学療法があるけどどちらが良い?と聞かれ、化学療法を選んだ。薬を数週間ごとに変えて服用し、当たりが出るまで繰り返す。時は20年前。ただ天井を見る毎日。「結婚式ではバージンロードを歩きたい、、、」その願いを聞き入れてくれたドクターは魔法の薬『ステロイド薬』を投与して、結婚式の前後合わせて3日だけ体の自由をくれた。信じられない!しばらくぶりに会う友人達には私の病は気付かれなかった。日本から到着した両親は私の夫に、「体の弱い子を生んでごめんなさい、不良品をつかませてごめんなさい」と言った。きっと遺伝子のせいにしていただろう。結婚式の後まだ薬の効果があったので、親達とショッピングに1日付き合った。次の日親が旅立ったとほぼ同時に魔法のタイマーは切れて、すぐ寝たきり老人の生活に戻った。半年後に夫のニューヨークからロサンゼルスへの転勤も決まっていた。毎日何を考えてベッドにいただろう。ただなんと言う感情かわからない物を抱えていた。希望を失いかけたある日、薬が大当たりした。!それは排卵誘発剤。ホルモン薬だ。女性ホルモンが足りないから増やすのだと言った。その後は、家事をこなせるくらいの体の自由は戻った。びっ子を引きながら歩けるようにもなった。薬が歩けるくらいに聴いた頃、味が分からなくなると言う副作用があった。そのことをドクターに話したら、「そんな事例は出ていない」と。口が乾くので水を飲むように言われたが、同時に味が分からない、、、。ハンバーグが油の塊にしか感じなかったことを思い出す。

 

いつもより更に、長ーい前置き。

 

そして本題に。女性ホルモンが効くと言うのはわかった。ロサンゼルスに引っ越してから新しいドクターに着くと、開口一番「リュウマチは妊娠している時は無くなります。出産後は3分の1は悪くなり、3分の1は元に戻る、そして3分の1は完治します。だから、とにかく早く妊娠しなさい」自分の人生設計を立てる前に、ただもう自分のためにはこうするしかないと思えた。体の自由が生活に支障をきたさない程度になったところで排卵誘発剤の投与をやめて、ホルモン効果がなくなった3ヶ月後からスタートしなさいと。

そう言うわけで私は2回の賭けに勝ち、Vitamins (5歳違いの娘達のこと)と同時に、更に自由を謳歌する体を取り戻した。今回は体を慎重に壊れないように使っている。壊れそうになったらすぐ休む、遠慮せず。

 

そして第4の孤独。子供を授かって気がついたことだが、子供は宇宙からの授かりもの。わたしの思い通りに行くことは全く無く、学校のお勉強も然り。先生は宇宙人のような二人のことで私を何度何度も学校に呼び出し、色々教えてくれた。それはいつも、「遺伝的な要素が大きいんですがね、ご親族には似たような方がいらっしゃるのではないですか?」で始まる。あの二人と同じような親族は見たことがない。私は手を尽くし愛を尽くし育てているのに、まるで「私の遺伝子が子供を放置しているからそうなった」と言うようにしか聞こえなかった。

時代は進みネットでなんでも検索できる時代。学校の先生とのコミュニケーションで落ち込むより、私の体に自由を与えてくれた子供達を、何とか親なしで生きていけるくらいに自立させなければいけない。その方法を探すことの方にエネルギーを注がなければ。そして色々読み漁った中の、この一冊。「99%遺伝子できまる」タイトルに惹かれて、読み始めた本だったが、期待した内容とは全く違った。期待外れで良かった。そして、この本のお陰で自分の遺伝子を責めることを止めることができた。

 

結論を言えば、人間に一番近いと言われているチンパンジーと人間の遺伝子の差はたったの1%だというのだ。こんなことってあるんだろうか。そうだとしたら、全く他人だと思っていた隣人達も、仲良し友達も、全く不可解な血の繋がった家族も、血が繋がっていない家族も、見た目が全く違う異国人達も、違う職業の人も、宗教の人も、実はほとんど一緒なんだという安心感。どんな違いがあって、揉めたり喧嘩したり怖がったり不安になったりする必要があるんだろうか。

 とにかく原因を知りたい。そして今、自分が何をすべきか知りたい。そしてそのために何を知るべきか知りたい。そんな答えをずっと探して辿り着いた答えは、自分を受け入れるためには、他のすべての人を受け入れなければならないと言うこと。99%の遺伝子を共有しているんだから。全ては繋がっている。